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2012年8月26日 (日)

女嫌いの平家物語 大塚ひかり

51vmljc137l__sl500_aa300_古典はミステリーだ。いや、ミステリー以上に面白いかもしれない。それは、事実と想像と思惑が入り混じっているからだ。

大塚ひかりさんの本を読んでいると、古典が上質のミステリーに変身する。名著『ブス論』を読んだ時も思ったのだが、おかめの謎について鋭く迫っている件がある。京都の大報恩寺(千住釈迦堂)のおかめの謎に満ちた話から、おかめがブスとなる経緯を紐解いている。

古事記の時もそうだったが、平家物語も書き手がどういった意図をもって書いたかということで物語の読み方が俄然変わってくる、面白くなってくる。古事記は滅び行く民族からの視点、そして平家物語は女性を拒絶する男性視点という捉え方。でも、そうやっても歴史の間に間に、戦いの中で生きていた女性の生や悲しみが滲み出ている。ひかりさんはそれを丁寧に拾い上げている。そしていつの時代も子どもに対する思いや、母親との確執、男女の情愛、人間の欲望といったものは変わらないと。

自分が現代に生きていて、科学技術だけでなく、精神的にも何か優越感を持っているのが恥ずかしくなるし、謙虚になる。人はいつも同じ営みを繰り返しているのだと。そしてそれが怖くもある。

話は変わるが、中学の頃、国語の先生が古典好き(?)で、徒然草やら方丈記やら枕草子やら、主だったところは暗誦させられて、今でも冒頭部分は殆ど覚えている。先生が特に熱心だったのは平家物語だった。これは源氏でなかったのは、今となっては分かるような気がするのだが。(源氏は触れもしなかったと思う。)

その中でもクラスで議論を二分したのだ敦盛だ。敦盛を討った熊谷直実は「武士として生きるべきだったか?父として生きるべきだったか?」という内容だった。
この本を読んでいたら、中学の頃の議論がむらむら思い出された。
「彼は武士として生きた。でも本来なら武士である前に、父親であるべきだ。」という意見と「いや父親である前に武士なんだ。」という青臭い熱い白熱教室だった。
私は「どっちでもいいんじゃない。どっちでも有りだし。でも、どっちも取れないから悩んでどちらかを取らなければならないし、それに優劣はない。」みたいな事を言って、まじめに考えていないとクラスで顰蹙を買った。
重い題材だが、心地よくない感じがして、当時は私は平家より、枕草子の翁丸の話や、徒然の、仁和寺の法師の話とかが好きだった。

ひとつひとつの話をもう一度ひかりさんを通して読むと、俄然面白くなる。すぐ寝込んでしまう維盛の北の方は、亡くなった私の母を思い出させる。母も、何か厄介なことがあるとすぐ身体の具合が悪くなり、寝込んでしまう人だった。
袈裟御前の話も、男目線のご都合の良い話だというのはよく分かる。『そして男たちはロマンを紡ぐ』と言っているように、男たちは勝手にロマンを紡いでいるのだ。『巨人の星』みたいに。

『女房たち-諦めの文学から希望の文学へ』は大団円で、源氏物語の浮舟について語る力強さと同じパワーを感じる。この件は、地下鉄の中で読んでいて、不覚にも嗚咽してしまった。『平家物語』は平家の怨霊の救いを目的としていたけれど、最後で残された女たちを救い、さらに私たちをも癒す文学となった。「『平家物語』を読むということは、私たちもまた彼女たちに続き、希望のドン底に連なるということなのである」と結んでいる。

本を読むということは、その本を書いたり、制作したひとの意図を読み、さらに読み手によりその意図を超えた高みに上るということだと、大塚さんの著書を読むといつも体感する。


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