ここで古谷野さんが批判しているのは「遊女神聖論」だとはっきり言っている。
日本近世(特に江戸時代)、遊女=売春婦が神聖だったという幻想を批判している。
江戸幻想派(こんなものがあるのかどうかはわからないが)からすれば、
売春婦という言葉もNGなのだろう。
そこから、江戸時代の遊女は神聖だった、近世は性にたいしておおらかだった、
春画はマスターベーションの対象にはならない芸術だった等々の主張が出てくる。
杉浦日向子さんが「ああ、早く江戸になればいい。最近よく、そう思います。」
と言っていたのは、そういう一連の流れだったのだろうか。
私も、長年落語を聞いてきて、『江戸はいいな。』『(居残り)佐平次みたいに生きたい。』
なんて思っていたころがあった。
それがなんか違うと思ったのは、清澄にいるころ江戸博物館へ行った時だ。
当時の人がいくら今より体格が良くなかったとは言え、あんなところに住んでいたとは
かなりショックだった。
そして、村上もとかの仁~JIN~を読んだ時「そうだったんだ。」と思った。
それ以来、落語は江戸庶民の生活を伝えるものではなく完全なフィクションだと思っている。
リアルなら、酢豆腐の若旦那は鼻が欠けているだろうし、三軒長屋はかなり狭く、暗いだろうし。。。。
批判の対象は佐伯順子同志社大学教授の書いた『遊女の文化史』とそこから派生した
江戸幻想論で、述べられていることは的確で、逆にいうと何故江戸幻想論がまかり
通っていたのか、いるのか良く分からない。
『人間業ではできないような苛酷な環境の中で自分の『性』を不特定多数の
人に分け与えている。だから彼女達は素晴らしい。(遊女の文化史)』に対し
、『自分自身がそういう立場にいない者が、学問の名の下にこういうことを
言っていいのか。』と言っている。
私なら『なら、あんたやってみ。』と言いたいが、幻想派に言わせると、
江戸時代の吉原と今の千束は別物なので、『やりたくても、できない。』
と切り返されるだろうな。
また『心中幻想』なるものがあって、江戸時代は恋と性が結びついていて
恋のための心中の文学が花開くが、ホントに恋のために心中した女なんて
いないし、落語の『品川心中』のほうがリアリズムだと述べているもの
スカッとする。
幻想はそれでも
・女郎の実際の生活が悲惨であっても、彼女らが聖なるもの担っていること
には変わりがない とか
・近世の文学(好色一代男とか)の価値を云々するが
『そのような金で束縛されて性の相手をする女を「色恋」の相手として
見るのは、普遍性を備えた文化とは言いがたく』『世界に向かって喧伝すべきは『源氏物語』であって、西鶴の好色ものなどは、纏足・宦官のごとき変態文化
だと、私には思えてならないのである』 この辺りは拍手喝采してしまった。
大昔、西鶴を少し呼んで、何とも言えない違和感があり、その辺りは
まったく素通りするようになったが、文化的価値を認識できなかったわけ
でもなさそうだ。(安心)
では何故、『遊女の文化史』がその論的甘さを指摘されつつ、
著者共々認められるのか?
そういうことってよくあることではないだろうか?
学問の世界でも、サラリーマン(ビジネス)の世界でも、超一流でない人は
二流の人を好むし、引き上げる。
簡単な理屈で、妙に鋭く、攻撃的な人より、そのほうが安心だし、おそらく当人も
自分の実力を知っていれば、立場を充分わきまえるからだ。
そして、女性について言えば、会社には何をしているのか良く分からないけど
『働く女性のロールモデル』とかで、それなりの地位についている人がよくいる。
あはは。。。少し愚痴っぽくなってしまったか。
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